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青春

2005年09月02日(金)

 「人は青春の終わりを感じた時に小説を書き始めるのだ」と数人の著名な小説家が言っているが、では青春とは何かというと、見栄を張って乗ったことのないバイクに乗って豪快に転んだり、好きな女の子に好きだと言えず逆に意地悪をしたり避けるようなそぶりをしたり、夜中に無目的に車に乗って海へ行き、ビールを飲んで、空き缶を海に投げ捨てては、何か悟った風を装って家に帰ったり、そういう種類のことを言うのだと思う。

 とすれば、未だにこの種の行為を時折しでかしてしまう僕にとって、青春とはまだ終わっていない進行形の概念であって、どおりで僕が小説を書こうとどれだけ唸ってもまったく書けないのは当然なのだった。

 青春とは貧乏と退屈を外的構成要素とするが、そういえば僕はごく最近まで一介の引き籠もりであって、時間と貧乏を極度に持てあましていたし、今でも貧乏でかつ社会に顔向けできない立場である事はまちがいない。とすれば僕が青春に近いのもむべなるかなということなのだろう。このようなエントリを書くのも、今朝方好きな女の子をつい避けてしまい自己嫌悪に陥ったからであり、何か話そうとしても自信がなくオドオドとしてしまうからであり、それらがなければこのエントリを書こうとは思わなかったはずだ。

 しかし、いくら僕がまだ青春に近いとはいえ、さすがに三十路にもなると多少は知恵もつき、羞恥心は薄れ、理性のタガは緩んでくるのであって、とすれば青春という若さゆえの生き辛さにもやや距離を置いて観察できるし、青春を他人事として好ましく感じたりもするようになってきている。

 僕にとって青春とは狂ったように苦しくしばしば甘い、そんなものだったけれど、では青春の内的構成要素である、羞恥心と、虚栄心と、自分だけは特別だと思いこむ信仰心とを、若者たちから完全に消し去ってしまったらどうなるのだろう。好きな女の子には好きと言い恥もてらいもなくアプローチしたり、知ったかぶりせずに知らないことは知らないとはっきり言い、あとでキチンと調べてきたり、自由時間があれば自分の将来設計に向けた自己啓発に勤しんだりするのだろうか。そんなのはひどく詰まらない。ぜひやめて欲しい。若いうちは些細なことで大いに悩み大いに苦しみ退屈にのたうち回るべきであって、若いうちから自分と世界を相対化して物事を価値ニュートラルに認識でき、コンプレックスを持たず、人生に目標を持ち計画的に歩み続ける若者なんて考えるだけで不愉快だ。ああ腹が立つ。とても許せないと思う。

 今僕は自分の青春が終わっていないことをとても好ましく思っている。お金はないし、立場はないし、詰まらないことでくよくよ悩むけれど、それでも、金と立場を持ち、何の悩みもなしに人生を享楽し、目的を持って着実に狂いなく歩んでゆく、そんな人生では手に入れられないものを、僕は沢山手に入れられるのだから。
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